ざしを しれる ばしょ

普段語られないざしの、一部

いまでも、

互いの中で生き続けてる。

 

中学生の頃、仲の良かった友人がいる。

小学校からの付き合いだが、

中学生になってから本格的につるんだ。

趣味が合い、ノリが合い、

一緒に居てとても楽だった。

 

 

初めて 俺の生み出す文章を褒めてくれた。

「すごい綺麗な日本語」

「志の書く文章、好きだよ」

初めて 俺の歌声を褒めてくれた。

「よくそんな感情込めて歌えるね」

「ほんとに上手」

文章を書くのも、歌を歌うのも、好きだった。

でもそれを他者に褒められた事はなくて、

別に 褒められたいとも思ってなかった。

そんな中、彼女は俺を えらく褒めた。

俺は 今まで知らなかった感情に出会った。

 

当時大好きだったアニメの話を

よく、彼女に聞いてもらってた。

「あのキャラがかっこいい」

「あの展開が凄かった、面白かった」

うんうん、と黙って聞いてくれる彼女が

とても大人びて見えて 好きだった。

ある日、彼女は登校するなり

「絵、かいてあげよっか」

と 言った。

当時からpixiv漬けだった俺は、

本当に、人の描くイラストが好きで好きで

それは 彼女にも伝えていた。

彼女は、絵を描くのが好きらしい。

その時初めて知った。

「描けたら持ってくる。待ってて」

そう言われて数日が経った。

 

数日後、彼女は

出来上がった絵を嬉しそうに、

また、俺の反応に期待しながら見せた。

あの時の衝撃、今でも覚えてる。

「すごい、すごい!うまい!すごい!」

語彙を失うとはまさにこの事。

色使い、キャラの表情、制作期間、

色々褒めるべきところはあったのに

何一つ言葉が出てこなかった。

本当に、うまい。

期待を遥かに超える上手さで

俺の心を鷲掴みにして、離さなかった。

 

それから、彼女のイラスト提供が始まった。

俺が描いて欲しいキャラを言い、

数日後、彼女はその絵を俺にプレゼントした。

それが 何回も何回も繰り返された。

彼女に描いてもらったイラスト、

計何十枚になったんだろう ってくらい。

若気の至りで「歌ってみた動画」を出した。

俺が歌い、彼女が描いた。

 

彼女は俺の生活の一部だった。

大好きで大好きで堪らなかった。

でも、中学三年生の終わり

大きなすれ違いの元

友人関係に終止符が打たれた。

話を聞くところによると

何故か 共通の友人の言葉が拗れ、

誤解を産んでるようだった。

必死に弁解した。

何度も、何度も、言葉を塗り替えて

一生懸命 説明をした。

が、聞く耳を持って貰えず 拒絶された。

「お前は私のこと、

絵を描く道具だと思ってたのか?」

と トドメを刺されて心が死んだ。

怒りよりも悲しみが、

声よりも涙が、

俺の 死んだ心から溢れた。

 

先が思いやられた。

なんたって、向こう3年間も顔を合わせる。

そう。高校も、同じ。

どんな顔をして学校に通おう、

クラスが一緒だったらどうしよう、

学年中から「悪者」扱いを受けたら…

不安が募って、下ばかり向いてた。

 

高校3年間、複雑な思いで過ごした。

高校1年、あからさまにギクシャクしていた。

高校2年、調和を乱さない程度の会話はした。

高校3年、「普通の友達」のフリが出来た。

会話もあり、名前も呼び合い、笑い合った。

まるで過去のアレが無かったかのように。

「許して貰えた?」

「時間が解決してくれた?」

などと、思わせるくらいに。

実際、過去の話は一度もしなかった。

出来るわけなかった。

互いに腫れものにら触らぬよう

避けて、避けて、避けて、平然を装った。

 

大学3年の冬。

同窓会で、久しぶりに顔を合わせた。

ギクシャクし始めて5年が経っていた。

その日の帰り際 彼女に手紙を渡した。

「家に帰ったら、よんでほしい」

便箋3枚にびっしり綴った俺の想いと謝罪。

許して欲しいなんて烏滸がましいことは

これっぽっちも思っていなかった。

過去は許せなくていい。

それでも、俺はもう一度

彼女の「友達」を名乗りたかった。

 

帰宅後、LINEが来た。

「手紙読んだよ。私も同じこと考えてた。でも勇気がなくて言えなかった。言わせてしまってごめん。私の方こそ許して欲しい。あの時、志を信じれなくてごめん。前とは違う感覚かもしれないけど、私は高校の頃も、ずっと友達だと思ってたよ。」

という内容だった。

思わず、泣いた。

 

そして改めて気づいた。

今、彼女は美術学校に通っている。

俺は、アカペラサークルに所属している。

あの日の、互いの言葉のおかげで。

 

互いの存在が、互いの言葉が、

どれほど 作用しているのか と考えると

心がゾクゾクした。

一度死んだ心は、一回り強くなり、

今も 俺の中心で生きている。

 

お互いを、

1番に想い合える関係が心底羨ましい。

同性で、何でも話せて、笑い合える

そんな友人が欲しかった。

感謝を伝え合い、リスペクト精神は忘れず、

いけない部分はきちんと指摘できる

そんな友人が欲しかった。

 

中学生の頃の一件が

今でも 俺の思考回路を鈍らせる。

心に負った傷は、未だ癒えない。

 

今でこそ

「来る者拒まず去るもの追わず」

「人には執着しない」

と主張しているけど

そうでもしないと 自分が苦しいだけだと

気づいてしまったんだよな。

 

もう、飽きられたく無くて。

もう、見捨てられたく無くて。

もう、傷つきたく無くて。

人に嫌われるのが怖すぎて、

「人にどう思われようが気にせん」

と言うことでしか 自分を守れない。

そう思い込まないと、生きていけない。

 

人が大好きで、人に好かれたくて、

人に愛されたい、そんな女なんだけど、

それを全面的に出す自分が嫌なので

今日もまた 強い女 を演じてしまう。

全然そんな事ないのにね。

 

 

現実直視型で、

面白味のない人間 なのかもしれない。

物事や人物に期待しないし夢も見ない。

常に現実と未来だけを見る。

「優しくて、面白くて、犬好きな人がいい!」

とニコニコ話す知人の横で

「第一に非喫煙者で、安定した収入と、

  家事育児への協力がある人がいい」

と貼り付けた笑顔が崩れないように、

そう、考えるのだ。

 

でも、自分はこの生き方が好きだ。

辞める気なんて サラサラない。

 

現実的な期待だけをすることで

想定外の出来事は起きない。

全ての出来事・全ての変化に対応出来る。

端から期待なんてしなければ、

こんなにも生きやすい世の中なのだ。

この世で信じれるのは自分だけ。

自分以外は皆、他人なのだから。

 

環境の変化に一々苦しみ、

その度にSNSで嘆く人が多い。

それはそれで いい生き方なのかもしれない。

良くも悪くも自分の感情を豊かにし、

気持ちの整理する手立てを学べる。

と考えると 決して悪くはないと思う。

 

でも、一々自分を揺さぶられるのは

自分の中では あまり望ましくない。

気力も精神力も使うし、シンプルに疲れる。

自分の人生において、疲れている時間ほど

勿体ないと感じる時間はない。

体力的な疲れは 回避できないので話は別。

ここで言う疲れは 気持ち面での疲れ。

 

と、授業の合間に考えてはみたが

どうせ他人からは共感されないのだろう、

と 少しだけ、寂しくなった。

指示待ちの人間は、

楽でいいよなと思う。

 

「どうしたらいいのか分からないし指示下さい」

「なにをすべきか分からないので指示下さい」

言うのは簡単だし

指示されたことをするのも容易。

「言ってくれたらやります」

「言われたことは完璧にこなせます」

「言わないとやらない」

「言われたこと以外は出来ない」

だよ、と全指示待ち人間に伝えたい。

 

とは言え、人には得手不得手がある。

それくらいは分かっている。

だから 指示待ち人間のことを酷く嫌うつもりも

酷く叱りつけるつもりも無い。

指示待ち人間が居るから

仕事が円滑に進む場合もあるだろうし。

軽蔑などは もちろんしない。

ただ、楽でいいよな と思う。

 

いや、厳密に言うと【楽】ではないか。

指示待ち人間には指示待ち人間ならではの

苦悩や不安があるはず。

しかし 全体を見て 長い目で物事を考えて

あれこれ指示を出す 指示出し人間に比べたら

物事を考えるプロセスが圧倒的に少ない。

そこが どうしても【楽】だと思ってしまう。

だから、いいな とも思う。

 

じゃあ僕も指示待ち人間になりたいか、

と問われれば答えはNO。

自発的に行動できない人間にはなりたくない。

だから僕はいつだって指示出し人間。

指示待ち人間が悪な世界ではないけど、

僕は絶対にそちら側の人間にはなりたくない。

 

 

意志がない僕は、僕じゃないから。

時間が守れない人間が、

本当に大嫌いだ。

 

「人の時間を奪っている」

という自覚が、まるで、皆無。

大概の「ごめん遅れた〜」は

約束の時刻に間に合わなかった事への謝罪。

それは同時に「待たせてごめん」という旨を

含みはするけれど、

それを主として伝えるのであれば

「約束の時刻に遅れてごめん」

「貴方を待たせてしまってごめん」

と、2つの謝罪をすべきだと 僕は考える。

 

いや、分かっている。

多くの人はわざわざ 日常的に

「自分にはタイムリミットがある」

「残された時間を有意義に使うには、」

と 考えないことくらい。

こんなことを考える方が異常であり、

堅苦しく、器の狭い人間なのだと。

少しの遅刻くらい笑って許せ、と

言われたことは数知れず。

 

そう言われる度に

じゃあ お前は笑って許してくれる人間とばかり

今後つるめば良いし、社会人になっても

会社の会議や取引先との面談の場にも遅刻してそうやって ずっとヘラヘラしてろよ、と。

強く、強く、思うわけであります。

 

と言っても、全ての遅刻に

いちいち感情を揺さぶられていては

こちらも精神が持たない。

僕が許さない遅刻は大きくわけて2種類、

・スケジュール管理不足の遅刻

・理由無しの遅刻

である。

前者の例をあげるなら、

「ごめんその日サークルで会議あるし

  15時ちょっとすぎる!!」

とか

「ごめん昨日夜遅くまで呑んでて

 ボケてるし乗り換えミスって 遅れる」

とか。

それはお前の管理不足だろう、と言える遅刻が

まず第1に許せない。

後者の例をあげるなら、

「ごめん ちょい遅れる」

「言うてた電車間に合わんかったごめん〜」

といった

理由無し+何時なら来れるのかの代打案無し

系の遅刻が第2に許せない。

 

どんな遅刻にせよ

理由と到着時刻は報告すべきだし、

遅刻してしまった以上は

その後の対応が鍵となるわけで。

本当に悪いと思っているなら

「ご飯代ちょっと多めに出すよ」

「途中なんか飲み物奢るよ」

と、反省の気持ちを行動に移そうとする

誠意を見せるのが一番。

僕はそれされたら一瞬で許す。

 

口でどれだけ「反省してます」と言っても

それはただの言葉に過ぎない。

行動で、態度で示さないと

相手には何も伝わらない。

「うちらは遅刻するのがあたまえの仲〜」

って集団になら遅刻してもいいし

誰も不快な思いはしないだろうし

誰も不利益を被らないけれど、

なあなあの仲 以外の人間との約束は

きちんと守るべきだと思う。

アフターケアもしっかりすべきだと思う。

 

生きづらい世の中だ、全く。

そんなのは、

贅沢だから 金持ちのすることだ!

と思っていた。

外食先で好きな料理だけ頼んでいい、なんて。

 

俺の家族は揃いも揃って外食好き。

週に一回は必ず家族揃って

どこかへご飯を食べに出かけた。

父の職業上、居酒屋に行くことも多々あり

小学生の頃から居酒屋を身近に感じていた。

食べ盛りだった俺と弟だったがら

自分の頼みたい料理を頼めるのは

せいぜい2品ほど。

あとは親たちが勝手に決めてしまう。

今 思い返せば

健康面での配慮が大きく、

栄養が偏りすぎないように 

色々 料理を注文してくれていたのだ、

と 分かるが、当時は

「お金がかかるからだろうな」

「大人が食べたいものを頼んでるんだろうな」

と 思うだけで精一杯だった。

 

だから、好きな物を好きなだけ頼める

友人宅が心の底から羨ましかった。

 

ある日 その友人宅に泊まりに行くと

「夜ごはん作るの面倒やし

 どっか居酒屋でもいい?」

と 友人の母親に言われた。

間髪入れず「もちろんいい!」と喜んで答えた。

実際店に行くと 友人の両親は

「好きなもん頼み〜」

と、全てのオーダーを

当時小学生だった俺らに投げた。

衝撃的だった。

長年の癖で2品しか選ばなかった…いや、

選べなかった俺に 母親は

「なんや、遠慮してんの?(笑)

  もっといっぱい食べれるやろ?頼みや」

と優しく声をかけてくれた。

 

その優しさと与えられた自由が

10年経っても忘れられなくて、

未だに誰かとご飯に行ったら

「好きなもん頼んでね」

と言っちゃうし、

自分も遠慮なく好きな物を頼む。

 

俺は多分、一生外食が好きだし

一生この幸せを噛み締めていく。

いや でも幸せが当たり前になったら

もっといいかもね。

つまり、

愛で動いていると。

 

俺は常々そう思うわけでして。

昨日の仕事はひたすら掃除、掃除、掃除。

時給1060円で数時間に及ぶ、掃除。

掃除自体は得意じゃないけど

仕事となれば選ぶ権利はない。

金になるなら、やるまで。

 

その数時間を経て、帰宅。

まだうっすらと存在する掃除魂が

俺を風呂場に誘導させる。

数ヶ月間 不調だった洗面台。

こいつと、再び向き合う時が来た。

なかなか水が流れず

汚水が溜まるのは日常茶飯事。

どうせ髪の毛が管に絡まってる、と

分かっていたが

手元の薬品じゃ手に負えなかった過去がある。

たまたまその日、彼氏が

強力なパイプユニッシュを買って

既に処置を施してくれていた。

しかし、全く流れないとのこと。

「水流したけど無理やった」 と。

 

洗面台を入念に洗いつつ、水を流し続けて数分

けたたましい「コポッゴボゴボ」という

ソレ が流れたであろう音が聞こえ、

水がサラサラと流れ始めた。

2人で顔を見合わせてよろこんだ。

それはもう、数ヶ月に渡って蓄積された鬱憤が

全て解き放たれた、多大なる喜び。

 

家事は時給が発生しない。

どれだけ綺麗にしてもお金にはならない。

金だけが原動力だった俺は

彼と過ごす家だから、

彼が使う場所だから、

と主語を他者にすることに成功したのだ。

 

それを改めて実感したきっかけは

あろうことか、洗面台の つまり。